電気自動車と電池は明日を拓く

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2020/2/14 23:03
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トヨタが目指す、フェラーリ、ポルシェに並ぶスポーツカーブランド
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【前の記事を読む】ベルトコンベヤーを捨てた スポーツカーづくりから始まるトヨタの「革命」

■人生の土台つくった登山

子どもの頃、空を飛べると信じていた。親に怒られても、横から眺めているような感覚だった。30巻もある百科事典を隅から隅まで読みあさった。そんな少し不思議な「超文化系」少年は、地元の大阪大学工学部に進学。「超体育会系」のワンダーフォーゲル部に入った。過酷なトレーニングで80キロあった体重は20キロ近く落ち、ひざの半月板には亀裂。苦しくて何度も逃げようと考えた。

ワンゲル部の仲間と記念撮影。村田久武(後列右から2人目)はいつも一番高い場所にいたという=本人提供

山に入れば自然は容赦なかった。夏は朝から晩まで雨が降り、冬の雪山では寒さで凍えた。しかも2週間分の食料と水、テントなどで背中のリュックは重さ約30キロ。疲れると、隠れていたエゴがむき出しになった。弱った仲間を「テントまでがんばろう」と励ますか、「もっとトレーニングしてこいよ」って思うのか。心が揺れ動いた。ただ、先輩はペースの遅い後輩を励まし、テントが破れた時もグループをまとめて近くの小屋に避難した。厳しいトレーニングは困難に直面した時、仲間をカバーするためだと気づいた。

互いにエゴをぶつけ合いながら、角が取れて一つのチームになっていく。そんな中で、先輩や仲間、後輩と信頼し、尊敬し合う関係が生まれた。その経験がいまも財産だ。「もうこれだけで生きているようなもんで、登山部に入っていなかったら、間違いなくここにいない」と振り返る。

卒業後、村田はトヨタに入社した。同期の多くが大阪拠点の大手電機メーカーに就職したが、「見られないし、触れない」と電気嫌いだった。トヨタがレースをしているのさえ知らなかったのに、なぜかレース部門に配属される。

1960年代の伝説的なマシン「トヨタ7」。800馬力以上のモンスターマシンだったが、相次ぐ事故でドライバーが亡くなった=2010年11月28日、富士スピードウェイ、中川仁樹撮影

初めて見たレースでトヨタはスタート直後にエンジンが壊れてリタイア。王者ポルシェとの圧倒的な差に驚いた。試験でもエンジンはよく壊れ、部品が壁に吹き飛んだ。「壊れた理由を部品に聞いてこい」と先輩に言われ、亀裂が入った部品を集めて見つめた。「ずっと聞くわけですよ。どこが痛かったん? 何がつらかったん? すると、なんか言い始めるんですよ」。繰り返すうちに部品を見る目や設計の力がついた。「僕の人生を変えた」と言う、この先輩が遺影の人物だった。

もう一つの転機が、米国でのCART(カート)レース挑戦。最初は連戦連敗で、ドライバーに「この腐れエンジンを降ろせ」とまで言われた。開き直ってライバルのまねをやめ、自分たちの理想のエンジンを徹底的に磨き上げた。00年に初優勝。涙がひたすら流れた。その後、CARTの年間王者に輝き、ル・マンと並ぶ世界三大レースの一つ、米インディ500でも優勝。「自分たちを信じてやれば世界一になれる」。大きな自信を手にした。

2002年、米CARTの年間王者に輝いたトヨタのマシン=2010年11月28日、富士スピードウェイ、中川仁樹撮影

■「カネとスタッフは自分で集めろ」

「ハイブリッドカー(HV)でレースをやれ」。電気嫌いの男がこう命じられたのは05年末。トヨタは99年を最後にル・マンから撤退していた。

トヨタ初の本格スポーツカー「トヨタ2000GT」。その美しいスタイルや性能から、米国のコレクターにも人気だ=2011年1月18日、米フロリダ、中川仁樹撮影

その頃、重い電池やモーターを搭載するHVのレーシングカーはまだなかった。パワーと重量の比率を市販HVの600%(6倍)に高める必要があった。通常の改善はせいぜい10%や30%。村田は「月に行こうって言うようなもの」とうなった。

しかも上司は「お金とスタッフは自分で集めてこい」。当時のトヨタは年100万台のHV販売実現へ邁進中。関連部署は多忙を極めていた。それでも、「午後5時からなら協力する」「若手2人をつけよう」と昔の仲間や部品メーカーが助けてくれた。「トヨタって、外からみたら金太郎飴とかよう言うんですけど、へんなやついっぱいいますからね。思うに二つあるんですよ。ものすごい実直で、ものすごい慎重でガチガチの金庫番と、分かった協力しよう、って言う人と。ここのバランスが、トヨタの絶妙なとこだと思いますよ」と打ち明ける。

だが、参戦には金看板のHVに傷をつけない十分な速さと安全性が必要だった。全力で加速し、減速をするレースでは、減速のエネルギーを利用した充電も、その電気をモーターで加速に使う放電も、市販HVに比べて格段に激しい。当時の電池では対応できず、蓄電装置「キャパシタ」を使うなどレーシング用のHVシステムを開発した。それを搭載する車体も、横方向に80G(車重の80倍、約80トン)、縦方向に15Gの衝撃まで耐えられるように設計した。ドライバーが間違いなく死ぬという限界を超えた数値だ。そんな力に耐えられる電子部品はなかったが、工夫を重ねてクリアした。

日本のレースを走るTOYOTA GAZOO Racingの2台のマシン。1台にトラブルが出ても、もう1台が勝てるよう、常に1-2フィニッシュを目指す=2019年10月5日、富士スピードウェイ、中川仁樹撮影

ただ、08年にリーマン・ショック、続いて大規模リコールと会社の屋台骨を揺るがす事態も続いた。「いつになったらレースができるのか」。先の見えない苦しさから、顔面神経痛になり、昔の上司に「ギブ(アップ)してもいいですか」と弱音を吐いた。11年の東日本大震災後、上司が言った。「これ以上、悪いことは続かないだろう。WECに参戦し、社内を勇気づけるという発想をしよう」。12年、再びル・マン挑戦が始まった。どこかであきらめていたら、優勝の瞬間は見られなかった。

■勝利の喜び、後輩にも

昨年8月からトヨタがスポーツカーやレース活動で使うGR(GAZOO Racing)ブランドでスポーツカー開発も担当する。目標はフェラーリやポルシェと並ぶスポーツカーブランドになること。それには少量多品種の魅力的な車づくりが必要。新しい車づくりに挑む狙いもそこにある。これまでのトヨタは大量生産が得意分野。社長の豊田章男(63)は「村田みたいなのが両方兼務するということは、その流れを変えるわけですからね、非常に大事だ」と期待する。GRカンパニーのプレジデント、友山茂樹(61)は「ほかの車づくりにも展開できたら、トヨタの車づくりが大きく変わってくるんじゃないかという期待感がある」と、さらに先も見つめている。

TOYOATA GAZOO Racingの看板の下を走るマシン。トヨタはGRを世界有数のスポーツブランドにするつもりだ=2019年6月10日、富士スピードウェイ、中川仁樹撮影

もっとも村田は「ポルシェとほぼ同じ性能なら、いまは誰もGRを買わない」と自覚している。モータージャーナリストの赤井邦彦(68)も「レース活動の究極の目的は市販車の販売促進だが、GRがトヨタのレース活動として理解され、ブランドとして価値を持つか、いささか疑問に思っている。なぜ『トヨタ』ではいけないのか?」と話す。一方で、欧州のレースではGRのウェアを着て、旗を振って応援するファンも増えてきた。村田は「何回たたきのめされても、3分前にリタイアしてもあきらめなかった。その生き様を見てくれている。あのとき勝っていたら、こんなに受け入れてもらえなかった」と実感する。

テクノロジーの面でも、レースから得られるものは多いという。例えばハイブリッドに欠かせない蓄電装置。開発を続けた結果、現在のマシンに搭載する電池の種類は、市販車にも使われるリチウムイオン電池になった。プリウス並みの電力の量なら、わずか10分で充放電できるので、走行中に充電し、モーターから500馬力の強大なパワーを引き出すことができる。今後はスポーツカーでもHVや電気自動車(EV)が増えていくのは間違いなく、この電池の技術を応用すれば、ライバルに対して大きな強みになる。

ル・マン24時間レースで優勝した「TS050ハイブリッド」の前でほほえむ村田久武=2020年1月10日、幕張メッセ、高橋雄大撮影

村田はGRでの自らの役割を、豊田や友山とは少し違う視点から説明してくれた。GRヤリスや、それに続くスポーツカーが客から高い評価を得られれば、後輩にとって大きな自信となるはずだ。米国やル・マンで味わった喜びを、経験してほしいと切に願う。「俺たちはやり遂げれたんやと。そういうのがさ、どんどん増えていくと、どんどん、どんどんトヨタは強くなるじゃん。そういうのをやれと、俺はここに呼ばれたんやと思う」

それでも、本当に世界有数のスポーツカーブランドになれると信じているのか。最後にそう尋ねると、村田は力強く断言した。「(世界有数のブランドに)なれない理由がない。米国でも勝ったし、欧州でも勝った。どんな特徴を出すか、うなっている最中ですけど、間違いなくなれますよ」

■Memo


修行僧…学生時代は「ほぼ山だけ」という日々。テレビはほとんど見ず、人気アイドルにも興味はなかった。「まるで修行僧みたいだった」と笑う。大学以外で重要だったのがアルバイト。ワンゲル部は厳しい縦社会。1学年違えば「神様」で、後輩におごるのにもお金が必要だった。いまも似たような仕事漬けの生活。たまの休日はぼろぼろになった体を充電させるだけだという。

ドライアイス…HVで初めて参加したのが十勝スピードウェイ(北海道)の24時間レース。使った市販車は電池を空気で冷やしていたが、高い負荷が続くレースでは冷却が追いつかない。そこで考えたのがドライアイス。白煙を上げて冷やす様子に、「エコを目指すのに二酸化炭素を出している」と冷やかす声も。この経験などを生かし、いまのレーシングカーは水で電池を冷やす。

十勝スピードウェイの24時間レースを走ったレクサスGS450hとチームのメンバー=トヨタ自動車提供

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